サンタ・マルタ (Santa Marta)
この地域一帯の観光、歴史、文化の中心地で、主要港も備えている.
「解放者」の異名で知られる革命家シモン・ボリバルは1830年12月17日にサンタ・マルタ近郊のサン・ペドロ・アレハンドリーノ農場で亡くなった. 一帯では1964年から起きているコロンビア武力衝突でなんらかの影響が出ている.
スペイン人が到達する以前、この一帯にはアルアコス族やコギス族といった先住民が住み着き、タイロナ文化が栄えていた.
1525年7月29日にスペイン人征服者のロドリーゴ・デ・バスティーダスは二百人の部下と2、3人の先住民をしたがえて街を建設した. 彼は新約聖書に登場するマルタという人物にちなみ街をサンタ・マルタと名付けた. しかし、彼が訪れたことのあるスペインのサンタ・マルタ・デ・アストルガスという都市が由来ではないかとの説もあり、多くの歴史家の間で議論が重ねられてきた. この街の建設からスペインによるこの地域の植民地化は急速に進み、植民地の統治機能も構築された.
植民地時代、サンタ・マルタは近隣のカルタヘナに港湾都市の地位を奪われた. 19世紀中葉にはフランス、イギリス、北アメリカなどから移民がやってきて、地元の人々に工業生産を紹介し工業と農業の業界団体を設立した. また、彼らによって鉄道も敷設され、産業のネットワーク化も図られた.
1871年にはマグダレナ大学が設立されたが、当初は法学と医学の二学部しかなかった.
20世紀中には多国籍企業の支援により内陸部で大量生産されたバナナや石炭が主要港から輸出された. 1968年には市役所から港湾局が分割された.